世の中には、「運をよくする」という方法がたくさん溢れています。
神社にお参りするとか、方向を気にするとか、黄色い財布を持つとか……
いろんな方法がありますが、科学的方法という類の本がよく並んでいます。
その中から何冊か読んでみましたが、内容については似たような内容だったと思います。
結論を簡潔にお伝えするとすれば、それらの多くは
運をよくするというより、運を活かす科学的方法
といえるようにおもいます。
詳しくお話してまいります。
運というものは存在するのか?
カジノでの運の調査
本のタイトルは覚えてないのですが、随分昔に読んだ本にこんな研究のお話がありました。
その研究グループは、カジノに朝から晩まで陣取って、出た目の数字や色を何日も記録し続けたそうです。
彼らはその中に、「流れ」であるとか、「偏り」があるのではないだろうか?という仮説があったようです。
実際のところ、「流れ」があることは確認できたようです。
赤が出やすいタイミングがあったり、黒が出やすいタイミングがある。
しかしそれはあくまで波のように、寄せては返すもので、コントロールする方法は見つけられません。
そして、かなりランダムな中のわずかな傾向ゆえ、それを利用するというのも不可能に見えたようです。
大数の法則
ところで、大数の法則というのはご存知でしょうか?
例えばサイコロを6回ふるとします。
すると、「1」、「2」、「3」…と均等に目が出るかというと、偏りが出ることがほとんどだと思います。
3・2・3・4・5・6 かもしれないし、
5・5・1・4・3・6 かも知れない。
かぶる数字もあれば出ない数字もあるでしょう。
一方、さいころを何千、何枚かいと振り続けると、次第に、1~6の数字が出る回数が近くなっていき、どの目が出るかの確率はだいたい1/6に近づいていくといいます。
ランダムな目も、たくさん回数を振れば、均等に目が出るという事です。
これは、生命保険などの保険料率の算定に使われる法則。
たくさんのサンプルで見れば、ランダムに見えるものも一定の傾向・確率に収まってくる、という事ですね。ざっくりいうと、全体としては平等になっているという事のようです。
神さまのえこひいきがないとすれば……
さいころの話は、あくまで、さいころが「平等にどの目も出る」というバランスの取れた構造だった場合、という前提になります。いかさまがあれば、振ればふるほど、意図した目が増える事でしょう。
では現実世界においては、神さまのえこひいきで、誰かの元にラッキーな事ばかりを起こすとか、
誰かの元に不幸な事ばかりを起こす、という前提がないとすれば、誰の元にも同じ確率で、いい事も悪いことも起こる、というのが現実的な考え方でしょう。
これは1人で見れば、一生を80年としたとき、80年で体験する様々な経験レベルでは、不幸が多いとかラッキーが多いとか言う判断もあるかもしれません。しかし、1億人の80年に対して、不幸が10億個、ラッキーが10億個あって、それをランダムにばらしたとしたら、一人当たりに不幸が偏ることもあれば、幸福が偏ることもありそうです。
つまり、結果として、「幸福な人」と「不幸な人」が出てくる可能性はありそうに思われます。
人類全体では、平等にランダムに振り分けられてるけど、たまたまたくさんの幸福や不幸を受け取っちゃう人もいる、ってことですね。
卵巣の宝くじ・親ガチャ
最近は親ガチャなんて言葉もあります。
かの投資家として有名なウォーレン・バフェット氏も「卵巣の宝くじ」といって、生まれついての条件の良し悪しがあることは認めています。
日本に生まれた私たちは、ひとまずは衣食住の安全は守られていることがほとんど。
戦争があるわけでもなく、高い治安と社会保障制度にまもられ、基本的人権が保障された国で生活しています。しかし生まれたときから、常に砲弾の危険に接し、今日の食事にもありつけず、不衛生な戸外で寝て、医学や文化の恩恵にも恵まれない地で生きていかざるを得ない人たちもいるわけです。
日本人であれば、ある程度の年齢になれば、起業するとか、労働するとかでお金を手に入れることも可能になります。しかし、そうでない国では、起業や職を得ることが夢のまた夢であることも珍しくないでしょう。生まれたときから私たち日本人は、ラッキーな状況なのです。
「運」の良し悪しって何だろう?
「運」は主観
子どものころ、私は学校に行きたくなかったんです。
特に運動会が大嫌い。
だから、雨が降ってほしかったし、熱が出てほしかったし、出来る事なら1か月くらい入院したいと思う日々でした。
当日、きれいな晴れた空を見て、気持ちがどんよりしたのを思い出します。
しかし、多くの子供たちにとっては晴れ舞台。
まさに晴れてほしいと思っていたことでしょう。
晴れた空を見上げて、「ついてないな……」と思う私がいて、「やった!」と思う人がいる。
実は、出来事そのものは幸せでも不幸でもなくて、それを幸せや不幸せにとらえてるのは、私たち人間じゃないか、と気づくわけです。
「運」は判断できない
もう一つ別の角度から見てみましょう。
たとえば、ある学校の入試、何とかまぐれで一発合格したとします。
本人は、ラッキーと思います。
しかし、長い人生の中では、実はその時に浪人していた方が、じっくりと学習できてその後の人生でむしろ良かったとか、浪人中に出会った彼氏・彼女がとても素敵だったとか、そんな場合だってあるわけです。
自分が選ばなかった人生を私たちは知ることができませんが、実はどっちが運が良かったか、なんて簡単には判断できないものです。浪人してそこで知り合った人と結婚し、けど、その人がとんでもないDVの人だった結果、お互いが傷つけあうこともあるし、どこでどんでん返しが起こるかはわからないわけです。
いま、私たちが「運がいい」「運が悪い」と言っているのは、長い人生の中での判断としては、あまりに短絡過ぎではないか、と私は思うのです。
「運」をよくする科学的方法
ランダムかつ判断できない「運」との付き合い方
ここまで見てきたとおり、運は大きく見ればランダムにやってくる。
そして避けることのできない卵巣の宝くじ。
また、目の前の運に対しての評価をする事は今は難しい。
いえ、死ぬまで、目の前の運を評価することはできないでしょう。
では、この「運」をよくするにはどうすれば良いのでしょうか。
多くの書籍から見出した答えは、
今自分の前に起こっていることは、自分にとって良い事である
と解釈すること。
そして、
今目の前に起こっていることを、いかに活用するかを考える
ということです。
「運」を受け身にとらえない
なんとなく、運というとどこからともなくやってくるもの、という印象があります。
しかし、そのことが表面的には良い事に見えても、中長期に見てよい事かどうかはわからない。
もっといえば、何が良い事か、悪い事かはわからないのです。
ならばだいじなのは、目の前にやってきた出来事を「どううけとめるか?」ではなく、「どう活かすか?」という風に自分への問いを変える必要があります。
あるパラリンピック選手は、中学の頃のバイク事故で下半身が動かなくなりました。
しかし彼は、そのおかげで、パラリンピックで世界的な選手になり、それがきっかけで全国を講演して回るようになったそうです。あの時事故らなければ、チンピラになってぶらぶらしてるんじゃないか、何ておっしゃってました。
ラッキーは、不幸のコーティングの中にある。
最近そんな風に思います。
おこることすべてが、今の自分に必要なことで、
大事なことで、
ラッキーなことである。
そう解釈することが、「運」をよくする科学的方法との事です。
・運はランダムにやってくる
・運はその人の主観
・運を正確に評価するのは死んでから
・運を待つのではなく、運をどう活かすかが重要