自分が欲しいものを望むと、世界は平和になる。
私はそんな風に考えています。
「そんな、欲まみれの世界が平和になるわけないじゃん」と思われる方も多いと思います。
けど、それはちょっとバイアスのかかった欲だからじゃないかと思うのです。
人は自分の本当の望みを知らない
子どもがなりたい職業の背景には何がある?
みなさんは、将来の夢ってありますか?
たとえば、小学生や中学生の人気職業ってよく報道されています。
情報源によって差異はありますが、スポーツ選手、YouTuber、パティシエ、医師、看護師、警察官などが代表的なものでしょう。
これらの事から受ける印象としては、
・キラキラしている(輝きたい)
・好きなものに関わり続けたい(好きなことで生きていきたい)
・人のためになりたい(ある意味においては承認されたい)
といった心理背景があるのではないでしょうか。
成功といえば……
大人になって、「成功した人」というと、どんな人をイメージするでしょうか?
おそらく誰もが、まずはじめに、経済的な成功を遂げた人を思い浮かべるのではないでしょうか?
ある調査では、幸福感の高さを調査した時、収入が一定レベルに達していれば、それ以上収入が増えても幸福感は高まらない、という事が示されたといいます。
一方、幸福な人生における大事な要素として、人間関係が調査の中で明らかにされていました。
しかし、友達が多い事をとりあげて、「あの人は成功者だ」という話はあまり耳にしません。
つまり、人生の成功を、私たちの主観的幸福と考えたとき、お金に関する項目が本来以上に重要視され過ぎている傾向があるように思います。お金だけでなく、物質的な事ばかりに目が行ってしまっているように思います。
成功の現実とイメージ
子どもがなりたい職業の多くは、「外から見て」華やかであったり、尊敬される職業のように感じます。
そして大人になった時、成功を考える際も、「外から見て」の評価に重きを置く傾向があるように感じます。
実は私たちが望む生き方や成功というのは、実のところは本心から来るものというより、どう見られたいか?というところに力点が置かれているのではないでしょうか?
欲しくないものも欲しいと思わされている?
マーケティングと国策
先日、ホリエモンこと、堀江貴文氏がこんなことを話しているのを見かけました。
マイホーム神話は、当時の国策だった、と。
所得倍増計画なんかの中で、みんなが一斉にマイホームを夢に設定した。
今となっては、所有よりシェア、なんて話になっていますが、「所有する」ことに重きを置いた時代です。
その結果、2時間も通勤にかかる場所に家を買って……なんて話も普通にありましたね。
また、マーケティングの技術は、私たちに欲しくもないものを買わせるよう誘導します。
たとえば、娘は今ガチャガチャにはまっています。
また最近は、「推し活」なんて言って、一部のコアなファン以外には価値が感じられないものにたくさんお金を使ったり、必死に限定品をゲットしようと頑張っている人もいます。
こういうのって、熱が冷めて振り返ってみると、「あれはなんだったんだろう……?」と思うことも多いと思います。
もしそうだとしたら、必要でもないものをうまく買わされた、という事になるのではないでしょうか。
モノやお金に限った話ではない
欲しくないものを欲するのは、お金についてもそうですね。
もう十分を金を持っていても、なぜか「もっと、もっと」とより多くのお金を求めたりします。
美術品のコレクションだって、別に自分のものにしなくてもいいのに、それを自分のものにしたくなる。
これって何かというと、「心の中に空いた穴」を埋めるための代用品として、お金やモノを手にしようとしているのではないでしょうか。
よくドラマや映画で出てくる「金の亡者」が象徴的ですね。
使い切れないほどの金もモノもあって、それでもまだまだお金に対して強い執着を持っている。
程度の差こそあれ、現実にもそれに近い人はたくさんいます。
じゃあ、彼らはどれだけお金を手にすれば満足するのでしょう?
たぶん、永遠に満足はしません。
それはなぜかというと、その人が本当に欲しいのはお金ではないからです。
たとえば、人からの尊敬が欲しいとか、自分の居場所が欲しいとか、人からの愛がほしいとか、そういった思いがあるんだけど、そこに素直になれない。
だからお金を稼いで、それで人を服従させることでその心の穴を埋めようとする。
けどそうすればそうするほど、尊敬や自分の居場所や、愛からは遠ざかってしまうから、負のスパイラルです。
私たちの本当の望みって?
きっとみんな、幸せに生きたい
ここまで見てきたように、実は私たちはお金やモノが欲しいわけではない、と考えたとします。
お金やモノが欲しいという欲求もまた、実はあるものに繋がっているのではないかと思います。
それは、心が満たされた状態で、幸せな人生を生きたい、という事です。
お金もモノも、愛も居場所も尊敬も、あくまでその手段なわけです。
究極の望みは幸せです。
けど、そのことに気付かず、「お金」「モノ」「愛」「居場所」「尊敬」を求めようと努力します。
尊敬を得る努力は、一見、素晴らしいものに見えるかもしれません。
しかしそれは、時に独善的になることがあります。
「こんなボランティアをすれば、こんな寄付をすれば、尊敬を得られる」と信じていたとします。
けどその寄付やボランティアは、それその物をやりたいのではなく、「尊敬」という他人の評価を求めています。
他人による評価の主体は当然、他人です。
自分ではコントロールできない。
コントロールできないものを得ようと必死にそのための道具を手にしようと頑張っている状態。
つまり、本心と行動に微妙なずれが生じるのです。
素直に求める
見栄とか、お金や地位で他人にマウントをとるとか、そんな歪んた形ではなく、本当に望んでいることは何でしょうか?
暮らしを守るためにとか、立場やメンツを守るためとか、そんな恐れからの思いでなく、本当に望んでいることは何でしょうか?
それが本当にやりたい事であれば、やる気なんて出そうとしなくても、自然と身体が動くはずです。
そして、誰もがそういうものを見つけ、そこにまっしぐらに突き進むことができたなら、簡単に世界は平和になるのではないでしょうか。
なぜならば、他人との比較などを排するため、他人に勝とうとしたり、奪おうとしたり、独占しようとしなくてもいいからです。
そんな世界が実現することができれば、素晴らしいですね。
そのためにも、誰もが自分が本当に望んでいることを発見することができる世の中にしたいと思っています。
・成功の定義は「外から見て」という形になりがち
・成功に際してほしいと思っているものは本当に欲しいもの何かは怪しい
・私たちの本当の望みは何だろう?
・誰もがバイアスのかからない望みを受入れられれば、世界は平和になるのではないだろうか。